1979年12月12日、韓国の政治史において重要な転換点となる「粛軍クーデター」が発生しました。この事件は、後に韓国大統領となる全斗煥少将を中心とした軍事反乱です。本記事では、クーデターの背景、進行、影響について詳しく解説します。
粛軍クーデターとは何か?
粛軍クーデター(12.12軍事反乱)は、1979年12月12日に韓国で発生した軍内部のクーデターです。当時、国軍保安司令官だった全斗煥少将と第9歩兵師団長の盧泰愚少将を中心に結成された秘密結社「ハナ会」が主導しました。彼らは軍の実権を掌握し、後の韓国政治に大きな影響を与えました。
クーデターは、陸軍参謀総長兼戒厳司令官の鄭昇和大将を拘束することで実行されました。鄭大将は、全斗煥らの影響力を排除しようとした人物であり、彼の逮捕は軍内部の大きな波紋を呼びました。この事件を契機に、全斗煥らは韓国の実質的な権力を握ることになります。
クーデターの背景には何があったのか?
粛軍クーデターが発生した背景には、朴正煕大統領暗殺事件による政情不安がありました。1979年10月26日、大統領であった朴正煕が側近に暗殺され、韓国は権力の空白期に入りました。この間、崔圭夏国務総理が大統領権限代行に就任しましたが、彼の指導力不足が指摘されていました。
全斗煥少将は、混乱の中で軍内部での勢力を強化し、鄭昇和参謀総長との対立が深まりました。鄭総長は全斗煥やその支持基盤であるハナ会の勢力を排除しようとしましたが、この動きが逆にクーデターを引き起こす結果となりました。
クーデターはどのように進行したのか?
1979年12月12日の夜、全斗煥少将は盧泰愚少将らと共謀し、軍の主要拠点を迅速に掌握しました。この際、鄭昇和参謀総長を拘束するための許可を得る必要がありましたが、全斗煥は事後的に大統領の承認を取り付けるという手法を取りました。
このクーデターでは、全斗煥らが特に重要視したのは軍内の統制でした。主要な軍司令部を支配し、反対勢力を封じ込めることで、彼らは迅速に権力を掌握しました。その後の軍内部での一連の粛清によって、彼らの権力基盤はさらに強固なものとなりました。
クーデター後、韓国社会はどう変化したのか?
クーデターが成功した後、全斗煥らは軍部の実権を掌握し、1980年5月には非常戒厳令を全国に拡大しました。この戒厳令に反発する形で民主化運動が各地で起こりましたが、最も象徴的なのが「光州事件」です。
光州事件では、民主化を求める市民が武力鎮圧され、多くの死傷者が出ました。この事件は韓国国内外から大きな非難を受ける一方で、全斗煥の政権基盤を強化する契機ともなりました。その後、崔圭夏大統領が辞任し、全斗煥が事実上の実権者となりました。
粛軍クーデターの歴史的評価は?
粛軍クーデターに対する歴史的評価はさまざまです。一方では、韓国の民主化運動に対する大きな後退とされており、全斗煥政権下での人権侵害や言論統制が批判されています。
他方で、全斗煥政権下での経済成長やインフラ整備を評価する声もあります。特に経済的な成果を理由に、彼の統治に一定の理解を示す意見も存在します。しかし、民主化を求める市民の弾圧という負の側面は、韓国史において消えることのない記憶となっています。
まとめ
1979年の粛軍クーデターは、韓国現代史における重大な事件です。全斗煥少将が主導したこの軍事反乱は、韓国の政治体制を大きく変え、民主化への歩みを遅らせました。しかし、韓国市民はその後の努力によって民主主義を勝ち取り、現在の自由な社会を築きました。
この事件から学ぶべき教訓は、民主主義の価値と、それを守るための市民の力の重要性です。現代の韓国は、歴史の教訓を糧に成長を続けています。
よくある質問/Q&A
Q: 粛軍クーデターと光州事件の関係は?
A: 粛軍クーデターで権力を掌握した全斗煥らは、1980年5月に光州での民主化運動を武力で鎮圧しました。光州事件は、全斗煥政権の正当性を問う大きな契機となりました。
Q: ハナ会とは何ですか?
A: ハナ会は、全斗煥や盧泰愚らが結成した軍内部の秘密結社で、粛軍クーデターやその後の権力掌握に大きく関与しました。
Q: 粛軍クーデターの結果、韓国の民主化はどう影響を受けましたか?
A: クーデターにより軍事独裁政権が続きましたが、市民の努力によって最終的には民主化が実現しました。
Q: 全斗煥の評価はどのように分かれていますか?
A: 全斗煥は軍事独裁者としての批判を受ける一方、経済成長を評価する声も一部で存在しています。
Q: 粛軍クーデターが韓国の歴史に与えた最大の影響は?
A: クーデターは、軍が政治に深く関与する時代を象徴する事件であり、その影響は韓国の民主化運動や市民意識に多大な影響を与えました。
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